仏報ウォッチリスト

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 漱石を読んだ1

夏目漱石の作品をいくつか読みました。いかにも夏休みらしいですねえ。
まずは『草枕』。
この作品については、半年ぐらい前に読んだ『ワキから見る能世界』(安田登著、生活人新書)で詳しく言及されていて、ずっと気になっていました。
草枕』の語り手は旅行中の画工(と書いて「えかき」とルビ)。彼は〈しばらくこの旅中に起る出来事と、旅中に出逢う人間を能の仕組みと能役者の所作に見立てたらどうだろう〉と考える。あるいは〈余のこの度の旅行は俗情を離れて、あくまで画工になり切るのが主意であるから、眼に入るものは悉く画として見なければならん。能、芝居、若(もし)くは詩中の人物としてのみ観察しなければならん〉と決めている。
上掲の『ワキから見る…』では、主人公のこの心持ちを、能のワキ(シテと対になる役者。脇役ではない。ワケてワカらせる役割だという)にだぶらせて紹介しています。話はずれますが、同書はお能の構造を従来と全く違う視点から示してくれており、私にとって得心の一冊です。
ところで、実際に『草枕』を読むと、高らかに〈非人情〉宣言をしながらも、そう首尾良くはゆかないよ、というのが一つの読みどころのようです。ことに志保田の娘・那美さんが視界に現れると、たちまちペースが乱される。仏道修行に邁進しようと努めつつも、ひっきりなしに煩悩が生じて、みたいな。
それにしても、この作品を説明するのは難儀です。作中では主人公が〈小説なんか初から仕舞まで読む必要はないんです〉などとうそぶいています。新潮文庫版に付いている柄谷行人氏による解説のことばを借りれば、この作品は「奇妙な小説」「反“文学”的な文学」「小説の小説」なのだそうです。
本文は漢語だらけでたいそう読みづらい。冒頭の〈地に働けば角が立つ。……〉は有名ですが、全編この調子です。新潮文庫だと本文が169ページまでなのに、巻末の注釈が全330項目もあります。ペダンチックな物言いの陰に散りばめられたユーモアに気づけば面白く読み進められるでしょう。そうそう、仏教語も満載です。
実はこの作品を私は小学6年生のときに読んだはずなのです。子ども向け文学全集の夏目漱石の巻に収録されていたのは確か『坊っちゃん』『草枕』『二百十日』『硝子戸の中』でした。しかしそれが、このたび読んだほど長かったわけはない、つまり抄録だったのでしょう。
べつに読書感想文を書いているわけではないので、下手な説明はこのくらいにして、当ブログの主旨に沿い、作品中の登場人物に観梅寺(架空)の大徹という禅僧がいることをメモして終わります。この僧のことは次のような順で記されています。このように書き抜いてみると、たわいもない話のようでいて、登場人物を巧みに配置して物語が運ばれていることがよくわかります。(〈カッコ〉内が引用文)

  • 語り手の画工が泊まった宿で〈仰向(あおむけ)に寝ながら、偶然目を開けて見ると欄間に、朱塗りの縁をとった額がかかっている。文字は寝ながらも竹影払階塵不動(ちくえいかいをはらってちりうごかず)と明らかに読まれる。大徹(だいてつ)という落款もたしかに見える〉。
  • 髪結床で髭を剃っていて、店の親方が志保田の娘さんの奇行について語る。〈「本堂で和尚さんと御経を上げてると、突然あの女が飛び込んで来て(略)出し抜けに、泰安さんの頸っ玉にへかじりついたんでさあ」〉。そこへ小僧の了念が頭を剃りに来る。真偽を確かめると〈「あの娘さんはえらい女だ。老師がよう褒めておられる」「石段をあがると、何でも逆様だから叶わねえ」〉と親方。
  • 茶席で画工と大徹が同席。絵画、茶碗、硯の話題。〈この僧は六十近い、丸顔の、達磨を草書に崩した様な容貌を有している〉。観梅寺に誘いを受ける。
  • 宿の部屋で、大徹の額を眺めている那美さんに〈「その坊主にさっき逢いましたよ」(略)「観梅寺の和尚ですか。肥ってるでしょう」「西洋画で唐紙をかいてくれって、云いましたよ。禅坊さんなんてものは随分訳のわからない事を云いますね」「それだから、あんなに肥れるんでしょう」〉
  • 寺を訪れて対話。〈「わしが小坊主のとき、先代がよう云われた。人間は日本橋の真中に臓腑をさらけ出して、恥ずかしくない様にしなければ修業を積んだとは云われんてな。あなたもそれまで修業をしたらよかろ。旅などはせんでも済む様になる」「画工になり済ませば、いつでもそうなれます」〉。
  • 門を出て。〈基督(キリスト)は最高度に芸術家の態度を具足したるものなりとは、オスカー、ワイルドの説と記憶している。基督は知らず。観海寺の和尚のごときは、まさしくこの資格を有していると思う。(略)彼は画と云う名の殆んど下すべからざる達磨の幅を掛けて、よう出来たなどと得意である〉

(この項つづく)