仏報ウォッチリスト

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 中野翠2冊読んだ

中野翠さんの近著を2冊読みました。下記は内容についての私的なメモです。


▼『本日、東京ロマンチカ』(毎日新聞社、07/12)
週刊誌連載コラムの昨年分を集成した毎年恒例の1冊。私は年に一度、当シリーズと、小林信彦さんの同じく週刊誌コラムを収録した単行本を読めば、1年間のトピックスを総括するには十分だと思っています。そこからこぼれ落ちた話題は、きっと私にとっても不必要なものなので。
さて、同書でとりあげられている題材を、前著を紹介したときと同様に、著者が〔◎好き〕〔×嫌い〕〔△どちらでもない〕の3通りに分類すると、次のようになります。

  • 〔△どちらでもない〕:柳沢伯夫厚労相発言(◎×ではなく同情)、赤ちゃんポスト(◎×ではなく静観)、『女性の品格』(◎×ではなく拍子抜け)、腕組みポーズ(◎×ではなく苦笑)、亀田ファミリー(◎×ではなく何を今さら)、鉄ちゃん(◎×ではなく不思議)

それぞれ説得力ある言い分をすがすがしく思います。
以下に、思わず同意した名言をピックアップしておきます。前後がないと意味が不明なところもありますが、気になるところは原文に当たっていただくということで。

  • (ポイントカードを)忘れたと気づくと、動揺せずにはいられない。「ソンした!」と思う。理屈のうえでは「ソンした」わけではなく、「トクする機会を失った」だけなんだけれどね。
  • (不思議体験談を聞いて)世の中はつねに私の頭の中より豊かなのだ。
  • (スピリチュアルブームに対して)「ほんとうの私」が知りたかったら「嘘の私」について考えたほうが早いと思いますけどねぇ。
  • 古典文学コーナーのない書店は、まるで寺や神社のない街のように味気なく、貧しく感じられる。
  • 「有罪か無罪か」「悪か善か」ではなく、「敬意を払えるかどうか」だ。
  • 近頃、「もったいない」はエコだかロハスだかの潮流の中で国際的に注目される言葉となったが、「みっともない」もぜひ復活してもらいたいものだ。
  • 「みんなが欲しがるもの」=「いいもの」=「私が欲しがるもの」――という、不動の、鉄壁の、揺るぎのない等式で生きられる人たちだ。いい悪いの基準が自分の外側(=みんな)にある。というより自分の内も外も関係ないのだ。「みんな」=「わたし」=「正しい世界」なのだ。
  • そうなんだ、ああいう熱烈な人たちに対しては、こっちも同じように熱烈になったら負けなんだ。それよりも、「あどけない」ってくらい、いい人らしくふるまって、あちらの敵対的パワーをやんわりと吸収してしまったほうが有効かもしれないのだ。
  • 天台宗のこの荒行に対しては怪しむ気持は起きない。畏敬の念すら湧く。その違いは何だろう。それは、たぶん長い歴史の中でギクシャクしながらも宗教と世俗の間に一定の距離とかルールが築かれて来たという事実だ。


▼『小津ごのみ』(筑摩書房、08/2)

映画監督・小津安二郎の作品をファッション、インテリア、俳優、セリフ、しぐさなどから論じた書。月刊誌連載中に見かけたときはちょっとミーハーな切り口に思えたのですが、こうして1冊にまとまると一貫した姿勢が浮かび上がって読み応えがあります。
小津作品についてはこれまで大御所の評論家がこぞって語ってきており、すでに評価が固定化しているきらいがあります。そうした呪縛を軽々と超えてしまうのが当書の魅力です。
たとえば、〈小津映画に出て来る人たちのファッションはへんだ。特に女のきもの姿〉(15p)、〈出て来る女たちのきものは、基本的に同じ趣味嗜好のものなのだ。まるで、ある一人の衣装箪笥から飛び出してきたようなもの〉(17p)だといい、〈小津にとっての「リアリティ」とは、たぶん、実際にそういう人物がいるかどうかよりも、自分の好悪の世界にいるかどうか、なのだ〉(71p)といった具合。ついでに〈こんなことをしゃあしゃあと押し通してしまった監督というのも珍しい〉(187p)とくれば、しかつめらしい評論家先生も形無しです。
あるいはよく指摘される、会話する視線が合わないという点について、著者自身は〈まるっきり気にならないのだ。なぜ視線が合っていないように見えるかという詳しい説明を読んでもわからない〉と記しています。この正直な発言に接して、私はこれまでその「不自然」を自らの判断ではなく、目にした批評を鵜呑みにしてそう思い込んできたことにはたと気づくのです。
本書はひとつの結論を導くような構成ではありませんが、いちおうその方向性を裏付ける個所を順にメモすれば、

  • きっと小津は「個性」なんか信じちゃいなかったのだろう。「個性」を超えるものを描きたかったのだろう。(44p)
  • ……小津映画の主役は時間というものだな、ということだ。抗しがたい時の流れ。家族の生成と消滅。世代交代。つまりは無常。(81p)
  • 小津映画が描き出したのは「小市民的生活のシアワセ」という見方は、あまりに皮相的ではないか。むしろ「小市民的生活の悲しみ」なのじゃないか? いい人ばかりで、世間一般から見れば恵まれたほうであっても、それでも避け難い人の世の悲しみを描いた映画なのじゃないか?(172p)
  • 「泥中の蓮……この泥も現実だ。そして蓮もやはり現実なんです。……泥土と蓮の根を描いて蓮を表す方法もあると思います。しかし逆にいって、蓮を描いて泥土と根をしらせる方法もあると思うんです。」(1949年、アサヒ芸能新聞インタビュー。同記事を引用した『小津安二郎日記』講談社から当書が再引用)(183p)
  • 「いかに現実を追求しても、私は糞は臭いといっただけのリアリズムは好まない。私の表現したい人間は常に太陽に向かって少しずつでも明るさに近づいている人間だ」(1953年、産経新聞インタビュー。同前)(183p)
  • 「輪廻」も「無常」も、もとは仏教用語だけれど、小津はとりたてて仏教を意識して言ったのではないだろう。小津が仏教に強い関心があったとは思わない。あくまで自分の感受性にこだわって、その底をみつめて行ったあげくにたどりついた言葉なのだろう。(192p)
  • 小津映画の中心になっている家庭には、当時の一般家庭としてはちょっと珍しいほど仏壇が見当たらない。寺は出て来てもお坊さんの姿はめったに映されない。自分が描き出すものを宗教的文脈で解釈されることを周到に避けているかのようなのだ。(192p)
  • 「輪廻」も「無常」も、観客たちにはもっと俗に「世代交代」や「この世のはかなさ」と受けとめられても構わなかっただろう。観客たちはそういう、なじみ深い言葉で受けとめながらも、きっと無意識下ではそれ以上のものを感じ取るに違いないという確信があったと思う。みなもとをたどれば仏教だろうが、日本人の心の中には八百年近く昔の鴨長明方丈記』の「ゆく河の流れは絶えずして……」といった無常観が深くしみ渡っていると信じたと思う。(192p)

    ※引用中の「……」は中略部分です。