仏報ウォッチリスト

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 「砧」を見た

先日、国立能楽堂お能「砧(きぬた)」を見ました。
夫を待ち続ける妻が、悲しみのあまり弱り果てて死んでしまう話。布地を柔らかくするために木槌(砧)で叩く音が遠く離れた相手に聞こえたという中国の故事があり、それにならって思いを込め砧を打つシーンが見せ場。
とあらすじだけ紹介するといかにもお涙頂戴ですが、そういう上っ面で見せないのがお能らしさです。
手元の資料では、冒頭に夫が出て来て子細を語ることになっています。ところが、このたびの喜多流の演出ではそれさえ省略し、いきなり妻の悲しみをズームアップ。都で用事を済ませると出て行ったまま帰ってこない夫は、心変わりしたのじゃないかと。
ないと言えば、肝心の砧打つ音もない。カーンだかボテッだか、そういうあからさまな効果音には頼らず、しぐさだけで音を想像させます。
憔悴した妻が退場した後、夫が帰宅し妻の死を知る。つまりは、万感の思いで発した砧の叫びが、まったく届いていなかったという悲しい事実。
このあと妻の霊が現れます。ひとしきり恨み節を連ねて〈法華読誦の力にて…成仏〉します。それはかつて響かせた砧の音の中に〈開くる法の華心〉があり、これが〈菩提の種〉となったからだと結びます。
地謡の中で、興味深い詞章が二つ。まず〈羊の歩み、隙(ひま)の駒(こま)〉。「屠所に引かれる羊の歩みは遅く、物と物との間を過ぎ行く駒の歩みは早い。そのように、あるいは遅く、あるいは早く、人が移り行く六道の世界」(日本古典文学全集『謡曲集二』)の喩え。
もう一つは、〈草木も時を知り、鳥獣も心ありや〉。これは「草木国土悉皆成仏」の思想を示しており、植物と動物で微妙に表現の違うところがミソ。
本作品について、世阿弥次男の元能は、この曲の情趣は今もこの先も理解されないだろう、と言ったそうです。それほどに深い作品ということでしょう。