仏報ウォッチリスト

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 「笑のこころ」展

出光美術館で展覧会「大雅・蕪村・玉堂・仙がい 「笑」のこころ」を見ました(がいは崖の山がない漢字)。
江戸時代中期の池大雅与謝蕪村・浦上玉堂は、文人画家というジャンルで括られます。文人画とはもともと中国の官僚がなぐさみに描いた絵のことで、屈折した傾向が強いといわれます。イメージとしては山水の風景に現実逃避的な願望を投影させたような作品が思い浮かびます。
ではこの三氏もそうなのだろうか?と疑問を呈して、再評価を試みたのが本企画。「笑(わらい)」を切り口に、大雅には無邪気さ(咲い)を、玉堂には達観(笑い)を、蕪村には知的センス(嗤い)を見てみようというアプローチです。
たとえば浦上玉堂。脱藩し放浪するさなかに描いたという先入観がありますと、黒々と塗り重ねた山の稜線などを陰鬱に感じますが、目を凝らすと小さな人影に並々ならぬ存在感があります。会場には玉堂の山水画を斜め下から見上げた写真が参考展示されており、なるほど当時の仲間たちは酒を酌み交わしながらこんな角度から眺めたのかとみれば、ずいぶん趣きが違ってきます。
日本の文人画を検証するにあたり、同時代の禅僧・仙がいの出光コレクションを併せて見せるのが功を奏しています。パネル説明によれば〈日本の禅宗文化において、笑いは無我の境地を示す表情として大切にされてきました〉。旅の僧が嬉しそうに酒をあおっている仙がいの絵には「お影でたすかる南無酒か如来」と賛が書いてあって、これは文人画とはまた別の手段で俗界を突き抜けた絵であるともいえます。池大雅は幼少時から黄檗宗の禅僧らと交流があったそうですから、禅的な「笑」が作品に少なからず反映されているのでしょう。
ところで、今回展示されている仙がいの禅画で珍品といえば、書き損じの数々です。鳳凰がうまく表現できなかったらしく、ぐちゃぐちゃっとごまかし、その手前に鳳凰が止まるとされる桐の木の枝をアップで書き足して「これでも鳳凰也」と言い訳しています。あるいは達磨の顔を書きそこねたのを逆手にとって「達磨のばけ物見てくなさんせ」というのもあります。失敗作なのに署名して落款を押す書き手もたいしたものですが、ありがたく拝受して大事に保存しておいたファンも偉い、さらにこれを入手して軸装し展示している美術館にいたってはひたすら平伏するばかりです。
〈幸福であるので笑うのが西洋の考えですが、「笑う門には福来る」という発想は日本独自〉というパネル説明が心からうなずける展覧会でした。