仏報ウォッチリスト

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 久米邦武と能楽展

久米美術館で「久米邦武と能楽展」を見ました。サブタイトルは「岩倉具視能楽再興を支えた人物(ブレーン)」。
能楽は700年近い歴史上で3度、存続が危ぶまれました。応仁の乱、太平洋戦争敗戦にまさる最大の危機だったのが明治維新。幕府や大名の庇護を失って衰退しかけた能楽を救った久米邦武にスポットを当てた展覧会です。
通常お能をテーマにした展示で主役となる衣装やお面は一切なく、並ぶのは当時の紙面や自筆原稿ばかり。そんな展示物を眺めるだけではたいして面白くもないのですが、歴史のひとこまを丁寧にたどるパネル解説に惹き込まれ、随所で引用される久米邦武の言葉が胸に響いてきました。
海外視察を通じて自国の文化の価値を再認識した岩倉具視は、能楽保存団体「皆楽社」の結成を主導し、明治14年に「芝能楽堂」を設立。おかげで能楽の伝統は断絶をまぬがれました。欧州でオペラを見て、日本にもオペラ劇場を作ろうなどという発想には向かわなかった見識に頭が下がります。この岩倉使節団に随行し、岩倉の懐刀として立ち回ったのが歴史家の久米邦武でした。
久米はその後、能楽研究の分野で活躍しました。能楽の起源に関して、久米は〈岩戸の前で舞われた舞台に由来するという説は信用できるものではなく、神代のはじめに今の薩摩大隅で行われた隼人の舞〉を起源とする説を明治12年に発表。ところがその25年後に吉田東伍が反論して〈雅楽寮の部にある雑楽〉を起源とし、以後こちらが定説となっていきました。
後輩に論破された格好となった久米邦武ですが、それでも吉田東伍とは親交を持ち続けました。53歳で早世した吉田のために久米は墓表を撰文して死を悼んだそうです。いいお話。会場にはその石碑の写真が展示されています。
久米邦武がお能を「立体的に」捉えていたことを示す論文の抜粋も興味深いものでした。いわく〈能は歌舞を主として中に科白で筋を運ぶ〉〈能の魅力は謡と詞章、舞の型、装束作り物などが総合するところにあり〉〈謡曲と文章のみで論じるのではなく、型・節・拍子などを揃えて研究すべき〉と。文献研究だけの学者ではなく、相当な見巧者でもあったわけです。
すいた場内でゆっくりパネルを読めたのが幸いでした。この会場がそもそも久米邦武・桂一郎の功績を顕彰する施設であることを割り引いても、たいへん意義のある企画だと思います。