仏報ウォッチリスト

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大江健三郎追悼で引用された文章

3月3日に亡くなった作家大江健三郎を追悼する特集が、文芸誌の5月号で一斉に組まれました。『群像』『文學界』『新潮』『すばる』の4誌です。
自分がいかに故人と親しかったかという自慢話はどうでもいいので適当に飛ばします。注目したのは、追悼文の中で故人の作品のどんな部分を「引用」しているか、です。大江作品は、小説もエッセイも他の書き手の作品を引用することで成り立っています。ならば手練れの作家らが追悼文で引用した文章を集めたら、大江文学の骨格が立ち上がって見えてくるのではないかと考えたわけです。4誌に掲載された「引用」は次の通りです。


講談社『群像』2023年5月号「追悼・大江健三郎」(16名執筆)から

阿部和重
〈かつてこの城山の小さな城がこの地方の政治権力を代表していたころ、僕の祖父は百姓一揆の指導者をだまして裏切らせ孤立させたうえで殺し、そして城主から拳ほどの金の亀をもらった。僕はその祖父を恥じて、鳥(バード)にも菊比古にもそれを話したことがなかった〉『不満足』

いとうせいこう
〈僕らはその僕らの車を、フランス風にジャギュアと呼んで、他のすべてのジャガーと区別していた〉『叫び声』
〈あなたが伯父さんからもらって着ていたバック・スキンの外套、どうした?〉『個人的な体験』

尾崎真理子
〈小説で自分の実際の生活を誇張したり、ゆがめたり、ひっくり返したりして検討してみているうちに、何だか現実生活と小説のあいだの境目がおかしくなっている〉『作者自身を語る』

工藤庸子
〈小説を書くことは、すでに作家の意識のなかにあるところのものの、等価物 equivalent を文章によってつくりあげる、という作業ではない〉『文学ノート 付=15篇』

蓮實重彥
〈——確かにきみはそれに成功したね。しかしその過程で、若い時の大きい読者を失なった。そのジレンマは感じるだろう? 今後それは、さらに深刻になるのじゃないか?〉『取り替え子』

沼野充義
〈教会という言葉は、私らの定義で、魂のことをする場所のことです〉『宙返り』


文藝春秋文學界』2023年5月号「追悼大江健三郎」(対談含む12名執筆)から

町田康
〈ハロオは日本語の、ようおいでなさいです、お客さんがきたら、おまえらもいうじゃろがあ、ようおいでなさい、ようおいでなさい、ハロオ、ハロオ! じゃあ〉『遅れてきた青年』

中村文則
(引用ではないが長めの要約)『共同生活』

朝吹真理子
〈腿の間の毛むくじゃらな様子を見あげるのが好きだった〉『懐かしい年への手紙』

松浦寿輝
〈快楽の動作をつづけながら形而上学について考えること、精神の機能に集中すること、それは決して下等なたのしみではないだろう。いくぶん滑稽ではあるが、それは大人むきのやりかたというものだろう〉『われらの時代』
〈結婚し、二人の子供をつくり二十冊の自分の本に背後から責めたてられ、軽いアルコール中毒になり、癌で死ぬる、さして天才もない作家の生涯のおだやかな線路に、ぼくの機関車は乗ろうとしていたのだ。あらゆる冒険的なるものをあきらめて〉『日常生活の冒険』

阿部和重
〈***の化粧部屋で、一発やりませんか? 一発やってみましょうよ!〉〈オジサン、オマンコ一発ヤッテミマショウヨ!〉『洪水はわが魂に及び』
〈かつてあじわったことのない深甚な恐怖感が鳥(バード)をとらえた〉『個人的な体験』


◆新潮社『新潮』2023年5月号「追悼 永遠の大江健三郎文学」(12名執筆)から

尾崎真理子
〈私は生き直すことができない、しかし/私らは生き直すことができる〉『晩年様式集』
〈昼近くなって父が書斎から宿酔の状態でノソノソ降りてくる時! 全体に不機嫌で・憂鬱そうで、自分を恥じているようでもあれば世間に腹を立てているふうでもあり、家の誰ともろくに話をしません。(中略)電話がかかってくると、はじめから無愛想な返事をして、たいてい途中で腹をたてて切ってしまいます〉『キルプの軍団』

多和田葉子
〈冗談、「穴居人」来たる、演劇版『みずから我が涙をぬぐいたまう日』のリハーサル、「赤革のトランク」、冗談はつらぬかれた、大眩暈〉『水死』目次

町田康
〈ここに人間の魂というものがあって、それが肉体ともども生きていくわけだね? 僕の村には、こういう伝承がある〉『取り替え子』

岡田利規
〈僕は電車の窓の向こうに、一応開発された——四国の森の中で育って、丘陵や林の風景に敏感な父によると、単に破壊されたよりもっと悪い——遠方の稜線を眺めていました〉(以下略)『キルプの軍団』

平野啓一郎
〈これが日本人なのだ。ひるがえっていえばすなわち僕自身ということなのだ〉『沖縄ノート


集英社『すばる』2023年5月号「追悼大江健三郎」(3名執筆)から

中村文則
〈「わしは自分が何者であるか、よく存じておる」と、ドン・キホーテが答えた〉『憂い顔の童子エピグラフ

       — — — ◆ — — —

……うーん、良い思いつきだと思ったのですが、実際に引用文を書き出してみると、どうも冴えないですね。
そもそも引用をしない執筆者もずいぶんいました。作家を追悼するのにどうして作品にふれないのかと不満がつのってきたところで、ふと気づきました。ああそうか、追悼文というのは、念入りに調べ上げて論じてはいけないんだ。記憶だけでさらっと書くものなのだと。つまり、あれです、お香典にピン札を入れてはいけないというやつですね。
それを知っただけでも収穫はあったというものですが、このままではうまく閉じられなくなってしまいました。そこで私が好きな大江健三郎の言葉を引用して終わりたいと思います。それは「絶望しすぎず、希望を持ちすぎず」です、

〈渡辺(一夫)先生が、励ましとカラカイのこもごも感じられる口調で、「絶望しすぎず、希望を持ちすぎず」というのが、ルネサンスのユマニストの生き方ですけれど、といわれたことがあった。僕の小説は、まさに絶望しやすく、それでいてヤワな希望にすがりつく若者たちを描くものだったからだ。ところが大きい困難を持つ子供と一緒に生き始めてみると、ユマニストの生活態度こそがなにより自分に必要な、しかも大きく欠けているものだと感じられた〉
 ——大江健三郎『言い難き嘆きもて』p301「ユマニスムに向かって」から

これはエッセイ集からの引用ですが、講演でも話されていましたし、言い回しは少し違いますが『ヒロシマ・ノート』の結びにもこの言葉が出てきます。上の引用にもあるように小説の登場人物にも多分に反映されていますし、作家自身の生き方を方向付ける思想だったはずです。
ですから大江健三郎といえば、「絶望しすぎず、希望を持ちすぎず」の人だったと私は思うのです。