仏報ウォッチリスト

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 ふるわぬ歌舞伎座

なんだかんだ言いながら、今月も歌舞伎座に行ってきました。某日の夜の部。
内容につきましては、渡辺保先生のサイト、歌舞伎劇評に詳述されています(あいかわらずお仕事が早く、かつ惜しげもなく公開)。いまさら私などが付け足す余地などございません。しかし劇場で少なからぬ疑問を感じて、帰ってから劇評を読んでやっと納得というのもあまり健全な観劇ではないんですけど。
で、今月もやっぱりぶつぶつ……。幕開きがいきなり動きの少ない舞踊、これが15分程度あった後に、幕が下りて20分も休憩。これでもうせっかく劇場へわくわくと足を運んだ観客のテンションは急降下する。たしかに、伝統的にまず三番叟のような出し物で舞台を清めるという話を聞きます、しかも京屋さんのお姿をありがたく拝める一幕であり、保センセイはさすがにこの舞踊の見どころをきちっと教えてくれている、でもね、やっぱり無理よ。
そうすると、続く「二月堂」はどうしたって分が悪い。派手さのない母子の情のやりとりだけですだから、よっぽど感情移入できなきゃ。そもそも良弁にまつわる伝説を知らなければ、ちんぷんかんぷんでしょう。その説明もなく台本がずいぶんカットされてないか?と思って今調べましたら、この幕の前に序幕がつく上演形式もあって、その記憶があるせいで違和感を覚えたようです。
その次がまた、どう見ればよいかわからぬ舞踊が2題。とは言え、富十郎と7歳の長男による「五條橋」には、〈ほほえましい〉などという次元ではない、澄んだ緊張感がありました。いま渦中の歌舞伎役者と女優が離縁だの親権だのと騒いでいますが、ホントにこの世界で食ってゆく覚悟あったの?としゃらくさい思いがしてきます。
で、キリが「河内山」。もしここで溜飲が下がるようにすべて仕組まれていたのだとすれば、すごい演出です。ところが、どうもこれがふるわない。渡辺保先生が分析するような高尚な理由ではなく、私の中で河内山宗俊のデフォルトは吉右衛門なもので、それをよっぽど上手に裏切ってくれなければどうしても不満だけが残ってしまう。
でもそのおかげで客観的に劇の構造がよく見えたという面もあります。二幕目の冒頭に松江家の面々が立ち代わり登場する、その対立関係がわかって、有名な「とんだところへ北村大膳」の台詞も腑に落ちる。これまでの宗俊はあまりに完全無欠すぎて、そのへんが霞んでいたのです。ってこれ褒めているのだろうか? まあいいや。
場内をぐるっと見渡して、空席が多いのも気になりました。休日の顔見世興行ですよ。大丈夫かなあ。今月は東京の3座で歌舞伎をやっています。ちょっと散漫になってませんかね。
というわけで、本来は「お坊さんがたくさん出る」おすすめの演目だったはずですが、個人的にはあんまりパッとしない舞台なのでした。