仏報ウォッチリスト

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 「邯鄲」を見た

国立能楽堂で「邯鄲(かんたん)」を見ました(11月5日、世界無形遺産能楽第五回公演)。
以前も書きましたが、お能はまだ見始めたばかりでとても舞台評を述べるなど恐れ多い私です。なにしろ見る演目がどれも初見、なので本欄では、公演前後に解説本などから知ったことをメモさせてください。
邯鄲の夢といえば、はかないことの喩えで、出世を望んだ青年が枕を借りて仮寝をしたところ、栄枯盛衰の五十年の人生を夢に見た、ところが覚めれば粥が炊き上がらぬ束の間の事であったという中国の故事にちなみます(「goo辞書」より)。
登場人物は旅をする青年盧生(ろせい)と、宿の女主人、その他。盧生は宿を訪れてこう自己紹介します。
〈われ人間にありながら、仏道をも願わず、ただ茫然と明かし暮すところに、楚国の羊飛山に、尊き知識のましますよし承り及びて候ふほどに、身の一大事をも尋ねばやと思ひたちて候〉
通された一室で不思議な枕を借りて眠りに落ち、夢から覚めたのちに、
〈よくよく思へば出離を求むる知識はこの枕なり。げにありがたや邯鄲の、げにありがたや邯鄲の、夢の世ぞと悟り得て、望みかなへて帰りけり〉
というように、僧侶や仏菩薩は出てこないものの、仏教色は濃厚。
岡野守也著『能と唯識』(青土社、1994)では、冒頭の章で取りあげられるのがこの「邯鄲」です。

ここには「夢を見ることによって悟る」というある種不思議な思想が現れている。
廬生はいったんは茫然となるが、しかし決して絶望してしまいはしない。
むしろ悟りたいという望みをかなえて帰ったというのである。
このあたり、空虚感ではないが、かといってむろん充実感でもない、表現しにくい、しかし深い感慨があって実にいい。
それは、栄華だけではなく、貧しさや憎しみや苦しみもみな夢のようなものだということを暗示しているからである。
心理学的・説明的にいってしまえば「カタルシス(発散浄化)」作用である。
(『能と唯識』から抜粋)

一炊の夢とは、たんなるむなしさにあらず。舞台からは上記の〈表現しにくい、しかし深い感慨〉が伝わってくる思いがしました。