出光美術館で「宗像大社国宝展 ―神の島・沖ノ島と大社の神宝」を見ました。
福岡県の宗像大社(むなかたたいしゃ)は、宗像市内と沖合の大島、そして玄界灘の沖ノ島にある三つの宮からなります。とくに4世紀にまでさかのぼる祭祀具が発見された沖ノ島は「海の正倉院」とも呼ばれています。会場の前半はこの神宝が中心。古墳時代の馬具のしゃれた文様に目を奪われました。特別出品として伊勢神宮の神宝も展示。
後半は大社所蔵の中世の古文書、南宋交易による文物、近世の奉納品など。仏教関連で、南宋から渡来した「阿弥陀経石」(展覧会では拓本を展示)は、刻まれた阿弥陀経が従来流布する経典よりも21字多く、法然上人や親鸞聖人がこの経文に注目して引用をしています。鎌倉時代に社僧の色定法師(しきじょうほうし)がたった一人で五千巻あまりを書写した「一筆一切経」は、巻物状の現品5巻と、断簡を軸装したもの2品。経巻はなぜか巻いたままの展示で1巻だけ末尾を数十センチ見せるだけ。断簡はその下に仙がいによる法師伝が付くものと、同じく仙がいの敬頌文が付くものがあります。とくに敬頌文が乗りに乗った筆運びでしびれます。
http://www.idemitsu.co.jp/museum/honkan/munakata_taisha/index.html
以下は出光美術館「宗像大社国宝展」図録掲載文から抜粋。
「元来、沖ノ島は玄界灘を行き交う人々の航海の標識であったという。海の恵みと脅威に触れながら海原を渡る人々は、いつしか島に人智を超えた存在を見出した。沖ノ島を根源とする宗像三女神信仰は多くの海人集団によるものであったが、四世紀初めには、玄界灘と宗像地域に勢力を持った宗像一族が奉斎することになった。四世紀後半、ヤマト王権と百済の通交開始の際、宗像一族とその信仰の重要性が高まり、沖ノ島でヤマト王権による国家祭祀が始まった。」(福嶋真貴子)
「宗像大宮司家の海の覇権は、寄物(よりもの)と称される難破船やその荷物を宗像大社本社・末社の造営・修理費用に充てることができるという慣例を保持していたことにもうかがえる。……天正六年(一五七八)に完成した本殿の造営にあたっては、玄界灘で難破した室町幕府将軍家の遣明船の積荷を換金して資金としており、寄物取得の慣例が継続していたことが明らかである」(河窪奈津子)
「社殿等の造営・整備は続けられ、昭和四十六年(一九七一)十一月に完了し、同月十一日には勅使を迎えた遷宮祭遷座の儀が執り行われた。……大造営完了を記念し、造営に尽力した復興期成会々長・出光佐三の名前を記念碑に残そうと、宮司らが出光に署名を求めたことがあった。快諾を得るであろうという予想に反し、「神域に自分の名前を刻み込むのは畏れ多い」と、その申し出を断ったというエピソードも伝わっている」(八波浩一)