国立能楽堂でお能「姨捨(おばすて)」を見ました。山中に捨てられた老女が見せる舞。にじみ出る悲嘆、悔恨、怨嗟、諦観。
設定として意外だったのは、宗教者が出ないことです。老女と会うのは都の者。旅僧のように供養をしてくれず、最後は見捨ててさっさと引っ込んでしまう。その代わりと言えるのは、月でしょうか。中秋の名月の光が終始舞台に降り注ぎ、老女の「執心の闇」を照らしている。ただし月は満ち欠けがあり、世の無常をも示しています。
『楢山節考』のように身内は登場しません。捨てられた経緯はアイが語るのみ。前場では老女の出自が分からず、中入りで説明があって、後場では同情すべき相手に変わる。でも凡人にはいかんともしがたい。で、残された老女は姨捨山になったといいます。
詞章には仏教的な要素が満載です。〈しかれば諸仏のおん誓ひ いづれ勝劣なけれども 超世の悲願あまねき影 弥陀光明に如くはなし さるほどに 三光西に行くことは 衆生をして西方に 勧め入れんがためとかや 月はかの如来の 右の脇侍として 有縁をことに導き 重き罪を軽んずる 無上の力を得るゆゑに 大勢至とは号すとか〉。このあと極楽の描写が続きます。三光は日・月・星の光。勢至菩薩は月の本地仏。
シテはゆっくり舞台を回る動作を繰り返します。太鼓が威勢を増すのではなくしっとりした脈動のために使われているのが印象的。さしてドラマを見せるわけでもないのに、三老女の一つとか最奥義曲などと言われ、2時間半の上演。深い余韻に浸りました。
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