9月29日に国立能楽堂で開催された第24回鵜澤久の会で、「砧」を見ました。2009年9月以来、2回目。
帰らぬ夫に対する妻の恨みの深さは2回目なのですでに知っています。今回気になったのはツレの夕霧です。夫に妻も名前が付けられていないのに、侍女の夕霧だけ名前で呼ばれる。当日配布されたパンフレットの解説で研究者の小田幸子氏も「夕霧は確かに気になる存在ではある。セリフも多いし、砧を共に打つなどの役目もある」と書かれている。「夕霧をワキ(=夫。引用者注)の愛妾」とみて、妻との間に心理的葛藤を想像し、夕霧の意図的発言が結果的に妻を死に追いやったとする立場もある」そうだが、「夕霧にこだわりすぎると一曲のテーマや世阿弥の意図から外れていく気がする」と釘を刺されているので、そう受けとめておきます。
同解説には結びにも重要な指摘があるので引用しておきます。「妻の思いは宙づりにになったまま残されたかのようだ。「恨めしや」と「法華読誦の」の間には、戯曲構想上の「空隙」ないしは「断絶」が存在する。テキストには現れないこの沈黙を、言葉以上に豊かな内的表現としていかに成立させることができるか、〈砧〉の主題に直結する表現が、役者に求められているといってよかろう」。これは観劇前に読んでおきたかった。次への課題とします。
→ 2009-09-07「「砧」を見た」 https://buppo.hatenablog.com/entry/20090907/p1