仏報ウォッチリスト

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 「頼朝と重源」展

奈良国立博物館で特別展「頼朝と重源 東大寺再興を支えた鎌倉と奈良の絆」を見ました。
同館では2006年に重源の特別展を催していますが、今回の展覧会は「少し視点を変え、この大事業をささえた人々という側面から鎌倉時代の東大寺再興に迫る試み」(会場入口の主催者ごあいさつ)だそうです。
平安時代末期に兵火で焼失した東大寺の再建をいち早く命じた後白河法皇、その指示を受けて立ち上がった俊乗房重源、鋳造役の陳和卿と造像をした運慶・快慶、法皇の遺志を継いで大檀越と言われた源頼朝、重源の後に勧進を引き継いだ栄西と行勇。見どころはこの再興をめぐる人間模様です。
まず第1章では焼失の衝撃を文字で再現。平家物語「(大仏の)御くしはやけおちて大地にあり…」、玉葉「仏法王法滅尽しおわんぬるか…」、吾妻鏡「(東大寺興福寺で)焼死者百余人…」。ドラマの開幕は簡単にパネル解説でも済むところを現物の写本で見せるこだわりよう。
第2章が重源上人。老境のお姿を忠実に写した肖像彫刻のそばには、実際にご本人が使ったと伝えられる脇息と杖を展示し、当時のご苦労をしのびます。
ここまででちょっと意外な僧侶が4人登場します。まずは西行法師、勧進活動で鎌倉の頼朝と奥州の藤原秀衡から鍍金のための寄進を取り付けました。つづいて法然上人は、大勧進職の最初の候補でしたが固辞されたと伝えられています。3人めは善導大師で、おなじみの善導の絵像は重源が宋から将来したとされ、重源の思想的な幅の広さを感じさせます。もう1人は文覚上人、流された伊豆で頼朝と出会って以来の親交があり、頼朝の肖像画が神護寺にあることとも関わる重要人物。会期後半には行基菩薩に代わる予定、こちらは言わずと知れた勧進の先達です。
第3章は源頼朝。二月堂修中過去帳で別格の扱いをされているのが一目瞭然。同じく別格扱いなのが重源上人。ちなみに重源の名の1行前には青衣ノ女人のお名前があります。大仏殿の脇侍と四天王像を制作するための助成を、1体につき御家人1人ずつ割り振ったという記録に、頼朝のテキパキした性格が見えます。2つ先の第5章では頼朝ゆかりの鎌倉八幡宮、勝長寿院、永福寺、伊豆山神社箱根神社を紹介。
第4章が大勧進職として鐘楼を再建した栄西禅師と、東塔と講堂を造営した行勇禅師について。栄西は前章で大仏殿前に菩提樹を植えたというエピソードが披露されています。退耕行勇の名は仏教史に出てくることがほとんどないので、これを機に覚えたいところです。自筆書状が達筆。
少し離れた部屋に(これも演出?)第6章の八幡神奈良時代の大仏造立に宇佐八幡神が助力し、鎮守に迎えたのがのちの手向山八幡宮です。鎌倉時代の東大寺再興を支援した頼朝は鶴岡八幡宮を信奉しており、八幡信仰こそがこのお寺を支えてきたという構図が見えてきます。
この企画を通じて、勧進職に必要なのはプロデュースする能力なのだということが分かります。重源上人は政治家や同業者との交渉力が抜群で、宋仕込みのオレ流をいかんなく発揮しました。勧進という仕事を人知れぬ地道な努力といったイメージで捉えるのは的外れだと思いました。