仏報ウォッチリスト

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 「大僧正行基展」

吹田市立博物館で特別展「大僧正行基展 なぜ菩薩とよばれたか」を見ました。
奈良時代の高僧である行基菩薩の生涯を紹介しながら、宗教事業家として民衆を救済した業績を顕彰する展示。そもそも行基本人に直接つながる遺品は皆無に近く、展示でも10センチあまりの墓碑の断片のみ。ほかは後世の周辺史料です。たとえば山崎院や大野寺土塔から発掘された、行基の事業に協力した人々の名を刻んだ文字瓦など。
朝廷側は当初、行基の行動をうとましく思っていたのに、その影響力を見過ごせず、逆に頼らざるを得なくなりました。続日本紀の記述では表記が「小僧行基」から「大僧正行基和尚」へとグレードアップしていきます。展示では同書の版本を4冊並べてこの変遷を紹介。
大阪周辺には行基創建と言われる寺がいくつかあり、縁起絵巻に行基の名が出てきますが、その伝承が実は大仏建立の際のエピソードだったりします。その都合よい寸借を指摘してみせるコーナーも。
確かな事跡と仮託された伝承とをきっちり切り分けて紹介しているのはさすがです。が、この展示で「なぜ菩薩とよばれるのか」という問いに答えきれているかというと、ちょっと心もとなく感じます。
いわゆる「行基信仰」について、展示ではフォローしきれていないものの、図録に解説がありますので、その記述を書き抜いておきます(会場の説明パネルもほぼ同様)。

  • 行基は生前からすでに厚い信仰を受けていた。
  • 平安時代に入ると行基は文殊菩薩の化身と見なされて信仰された。
  • 平安時代中期頃から各地の山岳寺院でみられるようになる「聖(ひじり)」の中にあった行基信仰が各寺院の縁起の中に反映されている場合が見受けられる。
  • 重源、叡尊、忍性らによって、行基信仰はいっそう盛んになった。
  • 1235年、生駒山東麓の竹林寺境内にある行基廟が開掘、舎利などが取り出され、東大寺において行基舎利供養が挙行されるなど、行基信仰がますます盛んになる。
  • 近世に入ると根強く行基信仰を持ち続けたのが葬送関係に従事する三昧聖であった。現在でも由緒ある共同墓地(惣墓)には行基菩薩碑があり、行基像が安置されている場合が多い。
  • 行基の千年忌にあたって、1747年に東大寺龍松院公祥が取り立て役を務め法事を行なった。行基信仰が高揚した時期である。

 (以上、部分抜粋。執筆は池田直子学芸員

展示資料は大阪周辺のものが中心で、会場でこれらの記述のすべてを現物で裏付けているわけではありませんが、とにかくいつの時代も庶民の側から広く信仰され続けてきた人だったことはよく分かりました。