仏報ウォッチリスト

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 「宗教に入るか」

夏目漱石『行人(こうじん)』を面白く読みました。同作品の〈死ぬか、気が違うか、それでなければ宗教に入るか〉というフレーズがよく引用されるので、その出所を確かめるべく手にとったのです。夏休みに開いてからのんびり読み継ぐこと2か月、もともとが新聞連載(大正元〜2年発表)ですから、とぎれとぎれでも違和感はなかったものの、なんとこの台詞が出てきたのは、角川文庫版で397ページある本文のうち終盤も終盤の365ページでした。(と、これをメモしておきたくてこの項を書き始めました。以下は蛇足)。
「死ぬか、気が違うか…」とつぶやく主人公・一郎は妻子ある学者。彼の精神を磨り減らせる元凶は妻お直ではないかと疑われ、家族がその修繕に奔走するも、さらに傷口を広げかねない顛末が繰り広げられます。ところが身近な知人の見立てによると、どうやらそうした夫婦間のすれ違いなど一面に過ぎず、実はもっと根深い闇が一郎の胸中を支配しているらしい……。
主人公の苦悶は、近代知識人特有の孤独感と言ってしまえばそれだけの話。宗教に入れば解決できるかという吐露も、作者の真意というよりは、その病が言わせた台詞なのでしょう。
しかしこの小説のすごいところは、人の心がわからないと悩む主人公の思いを誰ひとりわかってあげられないという奥深い仕掛けです。物語は一郎の弟による一人称の語りで進行します。そしてクライマックスは知人が一郎を観察して書き綴った手紙の文面。つまり主人公が自ら心情を表明することはついにありません。みな一郎がどこかおかしいと言うけれど、ひょっとすると一郎の感覚だけがまともで他の登場人物たちがことごとくおかしいのかもと思えなくもない。
前半は家族の気遣いとくに母親の心痛が語り手に伝えられ、それが読む側に染み付いています。だから中盤にある兄弟2人のスリリングな散歩も、嫂(あによめ)と語り手が2人きりになる艶やかなシーンも、おのずとそういう目で読み進めている。それがしだいに、そう単純な問題ではないと伝わってくるあたりが読みどころ。周囲の思惑や親類縁者の行状といった具材がうまいこと散りばめられたなかに、人間というものの不思議が浮かび上がります。