仏報ウォッチリスト

ここは仏教の最新情報、略して《仏報》の材料をとりあえず放りこんでおく倉庫です。

 寺社批判の投稿_再

また出ました。こんどは顔写真付きの寄稿です。

「宗教者へ 職失った人に寝食施すべきだ」/児玉修(映像作家)


 (略)(派遣切り等の事態の中で)日本の宗教者の多くが沈黙を守り続けていることに不思議な感覚を抱くのは、私だけだろうか。(略)
 私は約20年間、民放の宗教番組制作を担当し、多くの宗教者と出会ってきたが、彼らのほとんどが宗門の問題以外には無関心なことに驚いた。
 例えば、臓器移植の問題で国中が沸騰した時でさえ、宗教者が「いのち」について積極的に発言することはほとんどなかった。
 子殺しや親殺し、行きずりの殺人など、社会全体が立ちすくむような事件が起きた時さえ、宗教者がメッセージを発することはない。1年に3万人以上が自殺するという日本の現状も、宗教者には無縁なのだろう。
 宗教は今、派遣切りの問題にどう関わることができるのだろう。派遣村のように、宿泊施設と食事を提供することはできないのだろうか。(略)
 共に暮らす中で、自らの生き様を通して哲学を示すことが宗教者の役割だろう。「人はどう生きればいいのか」。職を失い、心に傷を負った人々の声を聞き、悩みを共有することこそ宗教者の務めではないか。
 資金、人手、安全確保……。実施までには多くの問題が頭をよぎるに違いない。すべてを背負う必要はない。公的な機関や支援団体と共に、社会を支えるコマの一つになればいい。踏み出しさえすれば、輪は広がる。
 公共性を認められ、課税対象から外されている浄財は、こうした時こそ生かされるべきであろう。


 ――「朝日新聞」(東京本社発行)4/12付9面オピニオン「私の視点」欄

 ※以上抜粋、(カッコ)部分は引用者が省略・要約


持論を展開するために、宗教者は何もしていないと決めつけてしまうのは、もはやこうした論法の定型ですね。この件は当紙面に既出なのに、過去トピをきちんと踏まえていないのが格好悪い。載せるほうも載せるほうです。(臓器移植や殺人や自殺問題に対する宗教者のメッセージが届いていないとすればそれは我々の力不足でもあります。申し訳ない)
申し上げたいことはいくつもありますが、絞って一つだけ。たとえば、ニュースを聞いて派遣村で力添えをしようと出向いたとする、その時にどうして自分が宗教者だと名乗る必要があるのか。やむにやまれぬ思いで駆けつけたのは、そんな肩書き以前の衝動ではないでしょうか。
        ◆
奇しくも、なのか故意になのか、同日付同紙の10面(上記掲載のちょうど裏です)「朝日歌壇」欄に次の一首が選ばれています。
 説教と引換へに配るパンならば生きる為には説教を聞く/公田耕一(ホームレス)