仏報ウォッチリスト

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 龍門二十品を見た

前項の場所から移動して、書道博物館に行きました。中村不折コレクションを収蔵する台東区立の施設。《館内はお静かにお願い致します》の貼り紙が達筆!
同館ではただいま「不折の愛した龍門二十品」を開催中(7/26まで)。中国・河南省龍門石窟には多数の石仏があり、かたわらに造像の由来を記した文字が刻まれています。三千以上あるというこの造像記の中から特に優美な書をセレクトした拓本が、展示されている「龍門二十品」。
個々の作品を批評する技量は私にはないもので、今回の展示を見て思い至ったことを以下に記しておきます。まったく初歩的なことで、そんなの分かってるという方々にはすいません。
美術品を見るときに「やっぱ本物を見なくちゃ」という姿勢があります。それはおおいに正しい。けれど、拓本というのはその成り立ちからしてすでに「本物」じゃないのです。まず元の文字がある〔A〕。それを石に写して刻む〔B〕。ここに紙を当てて墨で写し取ったのが拓本〔C〕。この3工程のどこを評価するか。元々の〔A〕にこそ価値があって、〔C〕はその残像を見るだけなのか。
そうではありません。石に刻まれた文字を目でなぞってみると、筆の運びだとこうはならない、という工夫がある。線の始まりとか、折れや払いとか。つまり〔A〕→〔B〕の時点で、新たなオリジナルが生まれているのです。
さらに〔B〕→〔C〕にも、ものすごい転換があります。凹凸を白黒にするという転換です。これは理屈で考えるとあたかも〔B〕→〔A〕に逆戻りなようでいて、実物はどうも違う。〔C〕という産物は、手書きではなく、石の表面でもない、まったく新規の芸術作品であるわけです。
このあたりうまく言葉にできないのですが、もう一歩進めて、〔B〕→〔C〕の工程は印刷と違うのか?と考えると、これは現物を見れば、その力強さは一目瞭然です。商業印刷ってしょせんは「アミ点」なんだよなあ、というのが私なりの今日の結論。というわけで「やっぱ本物を見なくちゃ」。
――いちおう仏教がらみで訪れた展覧会なのに、拓本自体の魅力が少し分かってきたことに感激して、造像記云々まで話が及びませんでした。そのへんは機会があれば項を改めて。