仏報ウォッチリスト

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 弱法師を見た

先日、国立能楽堂お能『弱法師(よろぼし)』を見ました。
春彼岸の中日、四天王寺。追放した息子の安楽を祈って施行する男が、その子と再会する話。僧侶は出てこないのですが、他人の中傷を真に受けたことを悔いる親・通俊(みちとし)も、悲嘆のあまり盲目となって弱法師と呼ばれる子・俊徳丸(しゅんとくまる)も、信仰心は人一倍厚い。
物語を支えるこの寺の信仰は重層的です。まず、俊徳丸のような障害者にとっては、四天王寺に設けられた悲田院が貧窮者の集う特別な場所だったこと。「げにや盲亀の我等まで……難波の法によも洩れじ」
それから、聖徳太子の信仰。具体的には創建の縁起と本尊を賛嘆。「金堂のご本尊は、如意輪の仏像、救世観音とも申すとかや……仏法最初のご本尊と、現はれ給ふおん威光の、真なるかなや、末世相応の御誓ひ」
そして、浄土教の日想観(詞章では、ジッそうかん)。四天王寺の西門が極楽の東門と向かい合っているといわれ、ここで夕日に向かって瞑想をする。すると俊徳丸は「満目青山は心にあり/おう、見るぞとよ、見るぞとよ……」
さて、胸が熱くなるこの物語で一つ引っかかるのは、父親が息子に気づいてもすぐには名乗らないこと。「昼は人目もさすがに候へば、夜に入り……連れて帰らばや」などと、なにをためらっているの、抱きしめてやればいいのに――。そこが凡夫らしいというべきか。こんな様子を仏さまがやさしく見守ってくださっています。