仏報ウォッチリスト

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 臓器移植と仏教

紙面から抜粋。

臓器移植に仏教の視点
  ―是非論超え、当事者ケアを重視する動き―



 ……(臓器移植について)90年代から各宗派は「容認」「反対」を論じてきた。しかし近年、「仏教は是非とは別の視点を提供すべきだ」との研究が進んでいる。……
 移植を認めなければ、それによってしか生きられない人を切り捨てることになる。認めると、臓器提供をしたくない人にまで提供を強いることになりかねない。……仏教の存在意義は「人々の苦しみを取り除くことにある」と(愛知学院大学准教授の)木村(文輝)氏。そのためであれば、教義が当事者の立場に合うよう恣意的に用いられても構わない。なにより大切なのはそれぞれの苦しみに応じた処方箋という。……
 臓器を提供する人の家族は十分な別れの時間を持つことができない。提供される人は「潜在的に他者の死を待ち望む」ことになり、罪の意識を背負いがちだ。(龍谷大学教授の)鍋島(直樹)氏は、双方の「痛み」のケアに宗教者が医療関係者らとともにかかわる可能性に触れている。……
 欧米での臓器移植の理解には、キリスト教の霊肉二元論デカルト以降の心身二元論の影響が指摘される。……心身を統合的にとらえようとする仏教が戸惑ったのは当然で、日本型生命倫理の成熟が求められている。……


 ――朝日新聞5/29付東京本社発行朝刊3面「あしたを考える」欄

同紙記者(磯村健太郎氏)によるわかりやすい解説記事。全文約1200字で、別表として「臓器移植に対する仏教各宗派の見解」を掲載。リンクを張れたらよかったのですが、あいにくウェブ上に転載がないため、紙面の3分の1くらいを飛び飛びに抜粋し入力しました(「……」は省略個所)。


省略部分に引用されているのが、木村文輝『生死の仏教学』、鍋島直樹『親鸞の生命観』、そして浄土宗のハンドブック『いのちの倫理』。
この中でとくに『生死の仏教学』の引用個所を、原本に立ち返って確認しておきます。

……(臓器移植)の問題に対する仏教界の反応は遅いものではなかった。……一九八八年には日本印度学仏教学会において……そして一九九〇年代になると、仏教界の各宗派からこの問題に対する教団としての答申や見解が順次公表されるようになった。……
 けれども、ここで大きな問題となったのは、臓器移植の是非に対して二者択一的な回答を導けば、そのいずれの場合にも、必ず切り捨てられて苦しみを負う人々を生み出してしまうことである。……
 こうした危険性を回避するためには、最終的には二者択一的な視点から離れるしかないであろう。……
 これら三者(引用者注:日本印度学仏教学会、曹洞宗、浄土宗)の見解には、脳死と臓器移植の問題に対して仏教の立場から是非の一方を選択することは困難であり、やむを得ず二者択一的な結論を回避せざるを得ないという消極的な姿勢が認められる。しかしこれでは生死の問題に対して、仏教界は自らの態度さえをも決定し得ないという誤解を世間に与える恐れがある。……
 私は(臨済黄檗両宗が合同でまとめた見解が二者択一的な結論を回避しながらも積極的なものであったように)……臓器移植の是非をめぐって、仏教の立場からは二者択一的な結論を積極的に排除する必要があることを、誇りをもって世に問うべきだと考えるのである。
 その上で、我々は仏教がこの問題に対して、二者択一的な回答を排除する理由を明確にする必要がある。……第一は、仏教がキリスト教のような啓典の宗教ではなく、唯一絶対の知識根拠としての神をもたないことである。……第二は、大乗仏教の説く「空」の思想と、それを支える「縁起」の理法である。……視点を変えることによって是非の判断は容易に揺れ動き、そこに一義的な真理を求めることは困難……このことは、第三に挙げるべき対機説法という、仏教の教化における基本的な立場と関わってくる。……そうだとすれば、臓器移植の是非をめぐる画一的な結論は、むしろ排除されなければならない。


  ――木村文輝『生死の仏教学』(法蔵館)、第三章第二節(152-155p)から抜粋。(「……」は省略個所。( )内は補足。太字にした「やむを得ず」と「積極的に排除する」は原文では傍点)