神奈川県立金沢文庫で企画展「救いへの祈り」を見ました。年忌供養の歴史と背景を文字史料と仏画・仏像で紹介。企画を担当された向坂卓也学芸員の解説講座を聞けたので、いっそう理解が深まりました。
初七日から七日ごとに七七日(四十九日)までの法要はインド起源で、『瑜伽師地論』などに遡れるといいます。百か日・一周忌・三回忌は中国起源で、儒教に由来する思想が見られます。七・十三・三十三回忌は日本オリジナル。
初七日から三回忌までに、閻魔王ほか死後の裁きをする「十王」を当てはめ、さらに三十三回忌までに十三仏を割り振るという信仰が確立します。初七日=秦広王=不動明王といった具合。このセットは特定の経典に依拠したものではなく、時代によって揺れがありながら次第に固まっていったというのを、展示では史料に基づいて示してくれます。
たとえば鎌倉時代の私的な書状に、誰々の十三回忌は何日だったっけと尋ねるくだりがあります。それが北条貞顕の文書であれば、鎌倉後期の武家の間では、そうした法要が普通に行われていたと分かります。ちなみに、展示される古文書は大きく分けて日誌や回向文などの公的な文書と、私的な手紙類に分けられます。この私的文書が聖教の紙背のようなかたちで大量に残っていることが、称名寺に伝わる文書が珍重される理由の一つなのだそうです。
展示されている十王図。死者が過去の悪業によって責め苦を受けている。凶器を突きつけられた時とっさに念仏か題目をとなえた、そのおかげで、尖った凶器の先端は蓮華に変わり、煮えたぎる釜も蓮池に変わる。つまり仏道に帰依すれば土壇場で救われることを説くこのような例から、死者を供養する年忌法要は忌日より遅れてはならず、前倒しで行うべきという考え方が強くなっていったのではないか、という解説には心から納得しました。