長年の歌舞伎通いがこのところ沈滞気味です。月1回は歌舞伎座に行くと自らノルマを課して10年、なお足を向けてはいるものの、ときめきは薄め。もちろんそれは興行側のせいではなく、向き合う私の熱意の問題です。醒めきってしまう前に、すこし中休みしましょうか。
けれど、ただ終息してしまうのもなんなので、手近なところへ興味をスライドできないかと模索中。その最有力候補がお能です。
そこでまずは書籍で手触りを確かめようと開いたのが『能楽史事件簿』(横浜能楽堂=編、岩波書店=00年刊)。
研究者や作家など各界の識者のべ11人が登壇した公開講座の筆録です。「事件」といってもスキャンダルじみた話ではなく、能楽600年のターニングポイントを見つめ直し、今に繋がる伝統をあらためて浮き彫りにするのが主眼。けっして入門的なガイダンスではありませんが、発言のはしばしから能楽への愛情が伝わってきて興味をかきたてます。
おかげでお能の性格がぼんやり見えてきました。例えば歴史上、国家の中枢的人物がひいきにしてきたこと。義満、秀吉、綱吉、岩倉具視……。長いことそういう位置づけだったわけですね。
さらには、能に熱中すると、仕舞や謡曲や楽器を自分もやりたくなるものらしい。稽古したくなる、実践して楽しもうとするのだそうで。つまりその道を進むと「見巧者」というよりは「愛好者」になってゆくと。今の私にはそういう指向はまったくないのですけど。
以下は同書にあった記載で、仏教と関わる発言のメモです。
応水一五年三月に後小松天皇の北山第への行幸があります。その時に「奥の御会所」で犬王が舞を舞ったという記録が「教言卿記」に残っているのですが、あの頃の金閣には、いまの舎利殿とは別に、北に天鏡閣という会所がありまして、二階どうしが拱北楼というスカイブリッジで結ばれていたらしいのです。「奥の御会所」はやはり天鏡閣をいうんでしょうか、そこで犬王が舞っている。(松岡心平)
普通「阿弥」号は時宗が名乗るのですが、あの当時は遁世した人が勝手に「阿弥」号を名乗ったりしていますので、単純に世阿弥が時宗の徒であるとは言えないと思うのです。世阿弥はむしろ禅宗のほうにこっていまして、五〇代の頃は、たとえば京都の東福寺の岐陽方秀というお坊さんに臨済禅の講義を聴いたり、座禅を組んだりしていたと思いますが、六〇代になって自分の田舎の大和に帰るのですね。それで大和の補巌寺に行く。これは曹洞宗なのです。……六〇歳で出家して、至翁善芳と名乗る。(松岡心平)
いま薪能という名の催しが全国ではやっていますけれども、本来は興福寺の南大門の前で二月の初めに一週間演じられた能だけが「薪能」で、その名前を全国の野外能に使うのは、ほんとは困るんですよ(笑)。……輿福寺の側に「今度秀吉公が来て薪能をやる」と通告が来ます。ぜんぜん薪能の季節じゃないんです。でも興福寺は、南大門の前では狭過ぎるからと、金堂の前に特別舞台をつくって、見所までつくったのです。ところが、いろいろな仕事が次々出てきたらしく、とうとう秀吉は舞いに来られなかった。死ぬ直前の醍醐の花見の時に、醍醐寺にその舞台を移築しています。(表章)
室町時代の勧進能は、役者がその収入をほとんど懐に入れたであろうにもかかわらず、チャリティという名目をたてて、鞍馬寺を修復するとか、どこかの橋をかけるとかいう名目を付けるのですが、江戸時代になると、それすら一切なくなります。江戸の場合は、将軍家の許可を得て町中において特別に一世一代の能をやるという意識になっていきます。興行そのものを「勧進能」という名前にしてしまって、一般の町衆に強制的にチケットを買わせて、見せていました。(竹本幹夫)