宝生能楽堂でお能「百万(ひゃくまん)」を見ました。
大念仏の行事が行われている嵯峨清凉寺の境内で生き別れた息子を探す狂女・百万が、僧に伴われて訪れた我が子と再会する物語。女は曲舞(くせまい)の踊手で、悲しみに沈みながらも、子に逢いたい一心で人前に顔をさらしているのだと嘆きます。憂いを帯びてしっとりした舞いが見どころ。
清凉寺の本尊といえば三国伝来の釈迦如来立像。詞章の合いの手には「南無阿弥陀仏」と「南無釈迦牟尼仏」が混じり合い、女は釈尊の長男ラゴラを引き合いに出し、自身を摩耶夫人に重ねます。
配布パンフの解説(松岡心平)によれば、この物語は導御上人の事績を背景としているといいます。捨て子となった導御は唐招提寺で出家し、融通大念仏会を催して母と再会しました。「竹馬にいざやのり(乗/法)の道」という詞章で始まって登場する幼子がのちの高僧とみると、物語のスケールがぐんと広がります。
お能には親子物狂という類型があるそうです。その特徴を新潮日本古典集成『謡曲集下』解題(伊藤正義)から書き抜きますと、(イ)失踪した子方がワキに被護されること、(ロ)狂女の道行があること、(ハ)ワキが狂女に物狂いを所望すること、(二)子方がワキを通して狂女に故郷を問うこと、(ホ)子方の形見、(ヘ)シテの中入り、(ト)再会の過程での妨害役、(チ)妨害者への狂女の反論、など。
この「百万」は比較的早い成立なので、すべての条件を満たしているわけではないとのことですが、なるほど、初めて見るのに既視感があるのはそういうわけですか。これってお能に限らず他の舞台にも、果ては現代のドラマにまで延々と展開してきているのですね。